眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

眠眠カフェイン

悪夢、死、輪廻転生

年を重ねるたび、自分が死ぬ夢は見なくなった。

崖で作業をしていたら、命綱を繋いでる滑車が外れて落ちる夢。
大きな魔物に追いかけられて、喰われる夢。

そんなものを見なくなったのは、キューブラー・ロスが提唱したあきらめの階段を、僕が着実に踏み進めているからなのかも。

 

それでも怖い夢はまだ続く。

最近立て続けに見るのは、自分が職を失う夢だ。起きると思いだすのは、かつて怖くなかったはずの無職の虚しさ。空っぽで重い不思議な質量の物体は、刑罰のように時間差で襲いかかってきた。

親戚の集まりで小さくなるあの感覚は、ポップに描かれたネット漫画より地味で無慈悲だ。

照れ隠しで饒舌に言い分ける父親の姿が思い出される。
「コイツ、それなりに良い大学は出てやがるんですけどね。まったくダメなヤツで」

 

…僕は物質的な死より、社会的な死を恐れ始めているようだ。
ひょっとしたらそれは、今が幸せということなのかも。

 

子供の頃は毎年、大晦日に家族で東京から新潟へ移動した。
その長ったらしい道のりの中、僕はYUKIの歌声で生を感じた。と同時に、遠くに臨む、知らない町の切り絵みたいな山の端に死を感じていた。

森の中にぽつんとたたずむ集落小屋、そこにはもしかしたら名前を持たない人が住んでいるんじゃないかとか。あるいは、忘れられることも忘れた死が転がっているんじゃないかとか。今ではしないような妄想を延々繰り広げていたのだ。

 

昔よりはずっと濃く知っている。
死は誰にも等しく訪れること。
その事実は僕の頭の中で、紫に染まった海に寄せる小波のように脈打つ。

知能を持たない虫けらはおろか、ライオンさんだってビビるんだから、僕なんて怖くて当たり前。
そんな怖さを慰めるのは無へのあきらめじゃなく、還りたいというあこがれだ。

人は分からないことをひたすらに恐れながら、隠された秘密にこそ昂る変態生物であり、最期になってやっと、生を受ける前にいた全くよくわからない場所を拝むことができるなんて、それはそれでよくできているなと。

 

”その先”に第2ステージがあって、みんなが待ってるイメージはあまりない。
だって、コンと頭打って記憶が飛んだら、誰だって死んだも同じなのだ。

仲間や経験は記憶だし。
世の中には記憶が10秒も続かない病の人間もいるわけだし。
もちろん、なんやかんやで好きな人たちにまた会えたなら嬉しいけれど。

 

シリアスな話ばかりだとあれなので最後にポップな喩えをすると、僕は大学生の頃、レンタルビデオ屋で同じAVを二回借りてしまうことがよくあった。

家に帰って再生ボタンを押すまでまるで忘れていて、まるで記憶喪失から目覚めたみたいに気づくのだ。これって生まれ変わったみたいなもんじゃないか。

やってもうたと思いつつ、少し運命を信じる気持ちになる。
広大なジャケットの海を泳いで、たどり着いたのが同じ作品だなんて!

 

生はシネマティックでエゴイスティック。
死はロマンティックでエロティック。

僕は虫けらの触覚みたいに、感度満点のスティックを振り上げて生きている。
知りたくて、夢見たくて、時には忘れたくて。

そんな感覚を揺さぶって発した言葉が、ほんの少しでもあなたに火をつけたなら、あなたの中で僕が生きている。
そして、その逆もまた然り。