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配偶者の死と妻のことば

妻の父方の祖母が亡くなった。
僕の祖父母はみな10年以上前に亡くなっているから、僕と同い年の妻に、まだご存命の方がいることに驚いた。

御年なんと99歳。
頭も体もかなりしっかりされていて、趣味の菜園も直近まで手入れされていたようだ。

 

長生きのデメリットというのか。旦那さんは20年前に亡くしているので、長らく独り身だったそう。寂しかったか今は知る由がないが……確かにそういうことはあるよな、と思う。
こればっかりは子どもや孫の存在に関わらず、誰にも可能性がある。

僕はつねづね、妻より先に逝きたいと願っている。

表向きは、僕より彼女の方が人に必要とされる人だから。本心は、今からではうまく独りで生きる意味を見出せる気がしないから。

妻の職場は生と死が近しい環境にある。医療介護のたぐいじゃないけど、お客様とのつき合いが濃く長い商売なので、ご家族の訃報に接することも多い。新卒からずっと勤めている会社だから尚更だ。

 

そんな妻が、1年ほど前に社内報に寄稿した。本を読まない人で、ものを書くのも苦手だからと何度も断ってきたが、ついにお鉢が回ってきたらしい。

実際に紙に刷られると僕にも見せてくれた。最初こそ渋っていたが、思いのほか写真写りが良かったのでご機嫌になったようだ。紙面の妻は後ろで手を組んで、少し体を右に倒しながら笑っていた。

文章のテーマは、「配偶者の死」。直接的に死に関わる仕事ではないので最初はギョッとしたが、読むとすぐに引き込まれた。

 

私が大学で習った心理の世界では、人間は親兄弟よりも配偶者の死に傷つくという説があるようです。もともと他人なのに、なぜ? 私は結婚するまでそんなふうに思ってました。小さなころからずっと過ごした家族の方が大事だと。ですが、私はその考えをあらためました。配偶者は他人であり、悪くいえば替えがきく存在だからこそ、結びつくために努力し、替えがきかないことにより強く気づくのかもしれません」

そんな文章だった。

 

文量は原稿用紙一枚もないというのに、読んでしばらく、僕は放心状態になった。
甘ったるい愛でもなく、乾きすぎた現実でもない。驚きや畏れとも違う不思議な感情だった。

妻のことばはいつもシンプルだ。
僕みたいに、自分のカタチを取り出すには型抜きみたいにまわりを全部描くしかない人間は、いつも何千、何万文字も費やしてしまう。それを彼女は、いつも躊躇なくひと筆で描いていく。

どうやら僕は何かを為したらしい。いったいいつ、どの行動が彼女の心を動かしたのかは分からない。同じ屋根の下で過ごしているというのに、僕は妻の大きな変化を読み取ることはできなかった。

 

マクドナルドでは2回連続で同じメニューを頼んだことがない僕と、
マクドナルドでは一生ハンバーガーだけを頼み続ける妻。
見えている世界は、最初から違い過ぎるのかもしれない。

それでも、
自分で堀ったブログという深い穴に、あろうことか過去の女性のことさえ放り続ける僕を、妻が選んでくれた現実を厳粛に受け止めていこうと思う。
僕は繊細ゆえに騒がしく変わり続ける自分の心が時折いやになるが、きっと、変わり続ける自分を変えてはいけないのだ。

 

先に逝きたい、と書いたが、僕だって全然死にたいわけじゃない。
加糖のヨーグルトを買わず、わざわざ無糖のヨーグルトにはちみつをかけて食べる程度には、身体を気遣っていたりする。
99歳対100歳とか、そんなハイレベルな次元を想定していると書き添えておきたい。

僕を失った暇つぶしには、長すぎるブログでも読んで笑ってもらいたい。願わくば「妻と暮らし」カテゴリだけ読んで、余計なものは目に入れないでもらえるとなお嬉しい。