眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

眠眠カフェイン

放たれた言葉の行方

話し好きの人にも色々いるなあ、と思う。

①自分が話したとき、相手がどんな反応をするか興味がある
②ただ口を動かしているのが好き
③相手の言葉を使って、いかに「気の利いてる自分」を演出しようか考えている

 

僕は典型的な①だ。
なので、②③の人にあんまり自分の話をしようとは思わない。どこかのタイミング、で必ずがっかりしてしまうからだ。それだったら、最初から完全に聞き役に徹してくれる人を選ぶ。

 

①と②③の見分け方はとても分かりやすい。

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ネムヒコ「このあいだペットのカバ用に卵焼き焼いたんですけど、口に合わないみたいで」
話し相手「そうなんだ。まあそりゃカバにも好みがあるよねー」
ネムヒコ「完全になめてましたね。で、代わりにスクランブルエッグを」
お邪魔虫「ごめんネムヒコ君お話し中に。(話し相手)くんに伝えたいことがあるから、1分だけ借りるね」
~1分経過~
話し相手「じゃ、仕事に戻りますか!」
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みたいに、中断された話を復元しようとしてこないからだ。
つまりは僕と話には興味がないということ。自分のペースが乱された時点で会話は終わりになる。

いったいカバのスクランブルエッグトークはどこへ行ったのか。そんな与太話ならともかく、会話のテーマが重要なほど、話し手として(俺の話なんてどうでもいいんだな……)という僻みが募る。
①の人は、「ごめんカバの話今度にしよう、それまでに私も調べてみるよ」なり、必ずその話題に触れてから去る。そんな人は、全体の1割にも満たないけれど。

そして②③でいえば、③のほうがめんどくさい。
②はせいぜい「ふぇぇ」とか「はわわw」くらいしか反応してこないが、③は知恵がある分「僕ならゾウを飼いますね。味覚があまりないらしいので(※嘘です)」などと会話泥棒で矛先を変えてくる。

……そうはいっても、僕はいまカバを飼っているのだ。お前、俺の話聞いてたか?と言いたくなる。こういうのに限って人とのコミュニケーションが好きだなどというが、ものは言いようだ。人(なら別に誰でもいい)とのコミュニケーション、ということなのだ。万人と話せる代わりに、その相手を見る力が欠落している。

②が視力0.001で僕を見ているとするなら、③は僕をただの鏡としか見ていない。

 

ネット時代の言葉はどんどん”そっち”へ向かっている。
世の中は街や人を素材と捉え、どこかから伸びてきた枝から葉をむしり取ることに慣れてしまった。

記事の、切り抜きの、ツイートの、リツイートでつながれた言葉は、著者の伝えたい色合いや温度を完全に失わせてしまう。名前なんてなくていいし、広まればなんでもいいんだから。著者の「そんなこと言ってねえよ!」など、バズの羽音に包まれて頼りなく掻き消える。

 

でも、僕はやっぱり①がいい。
本を引用するとき、人の言葉を使う時は、元の色合いや温度まで復元しようとする人が好きだ。

自身のTwitterのつぶやきを消去し、ChatGPTに登録して多くの驚きを得た後、僕の心はバランスを取るように、人への愛と経緯に向かった。
もちろん、誰にでも捧げられるものではないけれど。