眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

眠眠カフェイン

Twitterよさらば

Twitterのつぶやきをすべて消しました。
元々活用できていなかったし、本格的に見る専・緊急連絡先にする予定。
衝動的に、というよりは、「ついにやるときが来たか」という感じです。

 

きっかけはタチバナナオさんの最新の投稿。
ブログを書く者にとっては”刺さる”内容で、まっすぐな痛みと、針治療みたいにすっきりした感覚がありました。
※以前に同ブログの別記事(Twitterから離れた理由)を読んでたっていうのもあります。

 

僕もかじってたので多少は分かりますが……まあ、プロはテーマありきなので、そりゃ書く内容ははっきりしますよね。時間も貰えるし、堂々と取材もできるわけで。
でも、アマチュアにも持たざる者の強さがあると思うんです。

たとえば、ゲームライターのレビュー記事って、もうユーザーレビューじゃなくなってるんですよ。業界の裏側も見てるし、しがらみもある。完全に”知った側”の視点になってしまうんです。
その点、一貫して野良ユーザーとしてプレイしてきた人のレビューは純粋です。自分ごとを元にしてるので、そこを言ってほしかった!っていう嗅覚がある。書くスキルはかなりピンキリですが、読み手としては同じ目線の代弁者がいるだけで嬉しい。

 

なので僕らは無内容というか、無題の曲を弾いている、でどうでしょう。
もちろん「誰も知らない曲を弾いて何になるの?」という方はいるでしょうけど、”なんとなくいい”に出会える感動があるんです。名もなき人が路地裏のピアノに手をかけてサラッとアドリブを弾いてしまうカッコよさが。

それは葉加瀬太郎が髪を振り乱してかき鳴らす『情熱大陸』にはないもの。実績と権威がバッキバキだと、素人は「ああ弾けたらいいな」って逆に思えませんもん。

 

もちろん、”なんかいい”と思ってもらうにも一定水準のセンスが必要です。大半の個人ブログに、そんなものはないのが実情でしょう。そして、それでいいんです。ストレス解消だって、リハビリだって、なんでも。

ただタチバナさんのとこは、そうそう見ないレベルのクオリティだと思うんだけどなあ。仮にテーマはぼんやりしていても、文体で惹きつけて読ませるものにしてしまう。むしろその振り幅が大きい時にこそ真価が発揮されるイメージです。え!そこ拾い上げて作品にしちゃうの!?っていう。
そんな方が「ブログの無内容」に自覚症状を持ったのは、すごく逆説的で、親近感を覚えたという話でした。

 

あ、そうそう。だいぶ迂回した話になりましたが、僕がTwitterを辞めた理由に戻ると、よりサラッとブログをやりたくなったからですね。

有名人が亡くなれば、反応することすら迷って、書いたと思ったら自分にまつわる話。
愛でたいことがおきたら数万のいいねに1を加えて。
自分が勝手に顔を隠してるのに、それに縛られて景色と食べ物の話ばかりになるのも嫌で。
もう記事の宣伝するくらいしか書くことなくなってました。

「今からストリートピアノしまーす!聴きに来てくださーい!」
って看板立ててるみたいで、なんだか粋じゃないと感じちゃったんです。

うまいこと発信して周りを巻き込める方は羨ましいですけど‥‥僕に路面店スタイルは無理でしたね。街頭パレードを追うのをやめた分、本当に興味があるものの観察に注力していこうと思います。