眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

眠眠カフェイン

音・風・味のアドリバー

音楽には"ダイナミクス”という概念がある。
簡単にいうと、音の強弱やニュアンスをつけることだ。

ドレミファソラシドをピアノで想像するタイプの人は意識しないかもしれないが、シとドの間にもグラデーション状に無数の音があり、管楽器なら喉や口を使って、弦楽器なら弦を引っ張るなどして自由に表現する。
荒さ、雑さも含め、譜面にはないものをどう表現するかが演奏者の味になる。

 

もちろん、声だってそう。
ただ音階をなぞって口ずさむドレミの歌はとても教育的だが、玉置浩二に任せれば不思議なほど情緒豊かになるはずだ。心が弱ってる時なら、「ファイトのファ」くらいで泣くまである。

あえてしゃくりあげるように歌ったり、余計なフェイクを入れれば『千鳥の鬼レンチャン』では失格になってしまうだろう。
でも、音楽的には何ら間違っていない。
こういうのは、文章にも生き方にも当てはまるんじゃないかと思う。

 

思えば、僕はそんな「味」だけを頼りにしてきた。
数年間もニートをした時点で譜面は途切れているし、マナー研修をたっぷり身に染み込ませた銀行員に、仕草や言葉遣いの美しさでは敵いようもない。
経歴はスカスカ。見た目だって至って普通。
そんな僕に残された道は、譜面を外れた場所でいかに勝負するかだったのだ。

たとえば面接会場で、面接官に「場所はすぐに分かりました?」と聞かれて、
「はい!すごく立派なビルなので~」と答えれば無難だ。
でも、相手の記憶には残らない。
だから僕はあえて「巨大にそびえ立っていたので」みたいな言葉を使う。対して「巨大でしたか(笑)」となればしめたもの、冷たくあしらう面接官なら、根本的にリズムが合わない。

同様に「最後に質問はありますか?」と聞かれたら、
「すごくスムーズな面接で驚きました。何かコツはあるんですか?」などと本編に関係ないことを平気でいう。模範解答で済ませるのは、むしろアドリブを打つ価値がないと判断したときだけだ。

 

決して奇をてらってるわけではない。それどころか、むしろ逆で、できるだけ興味のおもむくままに行動している。もちろん、これをするためには、失礼にしない雰囲気作りと観察眼が必要になるわけだが。

 

長く楽器を弾けば弾くほど、自分の好きなフレーズが分かってくる。いわゆる手癖というやつだ。新しいを覚えようと教則本の類に手を出しても、気がつけばまたいつものやつを弾いている。アドリブ(即興)なんてものは、結局はアレを弾くための逆算作業でしかないのでは?なんて思えるほどに。

こんな風に、人間には”どうしても辿り着いてしまう”核がある。
そして、それに対して素直になれる人は驚くほど少ない。
外から押しつけられた”知識””個性”なんて強い言葉に煽られて、自己研鑽と自己嫌悪の中で、”風味”は弾き飛ばされてしまうのだ。

 

僕は処世術として、風と生きることを選んだ。
それは決して、努力を忘れるということじゃない。みんなと違う方向を向こうとするだけだ。みんなが正しそうなものを積み上げて和音をつくるなら、僕は個のダイナミクスを磨いていく。ただアプローチが違うだけ。でたらめに音を並べるだけじゃダメなのは、いずれにしたって同じだ。

偉そうな人は
「あれ、どこかにズレてる奴いない?」なんてつまらないことを言うかもしれないが、僕はこっそりと声を震わせ、程よいテンションで生きていく。

そんな涙ぐましい努力で生まれる成果はとても微かだ。先の面接の例でいえば、この方いいね!即採用!とはなり得ない。決して、売れ筋のスパイスではないのだ。
大体の人はスルーする。願わくば幾日か経った採用会議の土壇場で、「あの人は何かを起こすんじゃないか」と思い出してもらえればいい。それでいい。


一見、ささやかて殊勝。
でも実はひたすらに傲慢な試みを投げかけている。
「あなたには僕が気づけるか?」と問いかけ、「分からないならいいよ」と拗ねている。
反面、気づいてくれた人にだけ
僕を分かるなら分かろうとするよ、と全力の施しを返すのだ。

オーケストラには出られないが、アドリブを磨いた人間はしなやかだと信じてる。
どうしても辿り着いてしまう自分に向けて、無数のアウト・フレーズを探していく。
弱いことを恥じない。
かすれた音を見捨てない。
誰も譜面に書かないことを、誇らしく鳴らして生きていきたい。