眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

眠眠カフェイン

散らばり、まとまる文化論はネコの足跡のような奔放で

「映画はまず観て楽しい、あとから考察まとめを見て2度楽しい」
みたいなtweetを見かけた。

作品性のあるものを、そんな風に楽しめる人がすごく羨ましい。万華鏡を回すように、魅力は色あせるどころか層をなしていくわけだ。

同時に、自分にはできないことも分かってる。
同じ映画を何度か見ることはあるが、1度見て次に見るのは、一定水準まで記憶が飛んでからだ。

 

飽きてしまって楽しめない、というのとはちょっと違う。
説明されないと分からないなら自分にセンスがないだけだ、なんて潔さでもあるし。他人のバイアスを入れたくないという反骨でもある。たとえその”他人が”他ならぬ作者で、オフィシャルに「ここを楽しんで!」と制作背景を語っているとしても、その角度がくだらなすぎてガッカリしたくないからすすんでは見ない。

つくづく、自分はオタクの器じゃないなと思う。

 

とはいえ、ビートルズレベルになるとファンブックの類を開いたことはある。あれだけの名曲たちだ。さんざん話しかけてるジュードって誰?イエスタデイっていつの昨日?とさすがに気になりはする。最寄りの小型図書館にすら、ひときわ気合の入った装丁の極厚本が差さっているし。

ただこれはこれで、情報量が多すぎてうまく頭に残らなかった。アメリカの反戦運動も、契約上の不和も、インドの旅も、僕にとってはあまりに遠い空の出来事。そんな風に知識を入れそこなうほど、皮肉にも曲のきらめきが一層際立つ結果になるのだった。

結果、人にその素晴らしさを共有したいときは
「あれヤバいよねー」に終始することになる。

 

人生観もこれに近いものがある。
過去において、
「あの時、もしああ言っていたら」なんて後悔は一切ない。
物語の結果はそれまでの助走で決まっていて、踏み切る足の置き場どうこうでそう変わわるもんでもない、と。即興的で、刹那的で、短絡的な思考だ。

 

映画を巻き戻して、「ここに伏線があったのか!」とやるのがアレに感じるのは、神様視点で自分の人生を巻き戻されて、「はいこの台詞でデート相手が萎えましたー」などとやられたら嫌だからだ。
これは別に、作品を考察して楽しむ人を出歯亀巻き戻し野郎!と責めたいわけじゃない。純粋に見惚れて、その感動を何度でも味わいたいという人がほとんどだろう。

ただ僕が、やり直しの利かない”ひと振り目”の価値に重きを置きまくっているというだけなのだ。器小さきものが作品性のあるものを何度も振り返ると、
ドラえもんタケコプターってそもそも首もげるよね……」
みたいなつまらない粗さがしになりかねない。その懸念もある。

 

どんなに計画的に見えるものでも、ものづくりってどうしても後付け要素が満載になる。あの長回しがすごい!って崇めた結果、単に予算がなくて引き延ばしただけなんてザラ。完璧主義と言われがちなショパンベートーヴェンも、1小説あまったから適当に譜面埋めちゃったテヘペロみたいなことは無数にあるはずなのだ。

僕は人間の計画性を過大評価しない。
そして、人の柔軟さを信じている。
寸分なく組まれていく江戸指物は美しいが、それだって材の年輪や水分量を即座に見極める目利きが必要なのだ。

 


じっと眺めて精密な工夫を褒めるより、流し見してても思わず足が止まる違和感やインパクトが好き。行き当たりばったりで寄り道しながら、全体を通せば妙に筋が通っている、くらいがいい。

 

たとえば名作野球漫画『ドカベン』の作者・水島信司はサイコーだ。
悪球打ちで有名な岩鬼正美というキャラクターがいて、いつもボール球ばかり打っていたのだが……ある日、彼が突然ストライクの球も打ち出した。

理由について、作中では
岩鬼は悪球が好きなんだ。だからボール球を好んで打つ。でもよく考えると、一般的にストライクとされる球は岩鬼にとって好ましくない、つまり悪球。だからストライクも打てるんだ」
みたいな説明をしていて、おいおい無敵やん!と思わずツッコまずにいられなかった。

 

これを人の好意に例えるなら、
「僕はあまのじゃくだから、見るからに話しやすそうな人より、自分にとってちょっと苦手かも?くらいな人の方が接しやすいんだよ。いや待てよ? そう考えると、話しやすそうな人は僕にとって苦手な人ってことになるよね。だから僕はみんな苦手で、みんな好きなのかも」
みたいな話になる。

数十巻も連載しといて、これをやるなんて後付けの極。徹底したロジカルシンキングからは生まれない理屈だが、結果、苦手すら全部好きになってしまうという平和な結果を生み出している。

 

でも、連載開始時に数十巻分も計画してた作者なんていないのだ。変に計画を完遂しようと薄く延ばされるより、こっちの方が気持ちいい。他人から予想外に求められる幸福には、膨大なアドリブがつきまとう。

最近の僕は―別に長期連載大人気ブログではないが―書くことに奔放だ。
結論からとか、リードがどうとか、やればやるほどどうでもよくなる。

「本当に嘘のない言葉を書いているか?」と真摯に向き合って素材を作るのだが、その素材の並べ方はネコの模様のように適当だ。

もちろん、その適当は「他人にどう思われてもいいニャー」なんて無情な奴じゃない。
どうやったら可愛く見えるかを、発情期のように「二゛ャア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」と唸った結果だ。
足跡は気まぐれに。向かう場所は狭く高い塀の上。
そんな風に歩いていきたいものである。