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昭和のオトナがタトゥーへの偏見を語る


高校生の時はじめてタトゥーを見て、かっこいいなと思った。
夫婦でプロダクトデザインを手掛けている方で、お互い結婚指輪の代わりに、指にリング状の墨を入れたのだという。

確かな覚悟があった。
なるほど、取り返しがつかないことをわざわざするのには、こういう理由があるんだなと。

 

そんな僕だが、いまだにタトゥーは入れていないし、タトゥーを入れている人を入れていない人とまったくフラットには見ていない。
もちろん断固拒絶はしないけど、「タトゥーは入ってるけど、この人はどっちの人だ?」と一歩構える。それなりに理由があるのか。ただ周りがやってるからやったのか。

日本でタトゥーを入れると何かしら制限されるのは誰でも知っているし、勝算がないのにやってたらただのイタい人だから。


残念ながらイタい人は一定数いるらしく、
「タトゥーへの偏見をなくしたい」なんて言葉をよく耳にする。
僕は、その意味がよく分からない。

 

何となくじろじろ見られるのが嫌というのなら、あまりに繊細過ぎる。
ピンクの髪にする。マントを羽織る。自分から尖った格好をしておいて、ジロジロ見られるのに苦しむ人ってあまり聞かない。

昔ながらのロックンローラーは、あえて長髪をアピールする。俺、こんなに仕事が制限されるファッションなのにちゃんと食えてますよ。そこには、むしろ静かな矜持があるのだ。ごちゃごちゃ言うより、世の中が多少変に見てきても気にしない方が凛として見えるものだ。

 

働く場所がない!温泉入りたい!というのは、ただの調査不足。

社会はその人が墨を入れるずっと前からそうだったし、ちゃんと調べて事前に改善を訴えたほうが当然賢い。自分でも勤められる場所や、温泉を見つけてからやらないと。子供をつくってお金がない!と騒ぎ立てるのと同じだ。

もしあとから知ったのなら、自分が不遇だと叫ぶのではなく謙虚にやってほしい。

 

ファッションとして認めるべきというのは結構な暴論だ。
社会通念は、科学的根拠のあるなしだけでくくれる合理的なものじゃない。

たとえば、世の中には昔からスーツなんて着たくない人で溢れているが、少数派のわがままで簡単にはなくならなることはない。伝統によって根付いた「そっちの方がきちんとして見える」という”なんとなくの感覚”があって、それを変えるのは並大抵ではないのだ。「シャツを出すほうがオシャレだからそうしません?」と急に言われても、多数派はだらしないと思い続けるし、感覚をわざわざ変える必要もない。それを差別とも呼ばない。

タトゥーに限らず、どこの職場にも多少の服装規定は存在する。

 

海外ではもう当たり前、なんて言い草はあまりに雑過ぎる。

その「海外」はアーティストやスポーツ選手だけを指していないか? だとしたら、日本でもそっち系の職業人のタトゥーを揶揄する向きはほぼないだろう。

海外でも、一般的な仕事には見た目の制限なんてざらにある。逆にどこかの部族ではごく限られた者だけが許される聖なる刻印であり、簡単に入れる方が無礼にあたる。
世界は広い。自分に都合いいところだけとるのではなく、どこのルールに準拠するのかは明確に示さなくては。なんでもかんでも海外が善なら、もっと日本の街にノーブラが蔓延するべきだ。

 

タトゥーしてる人にもいい人はいるよは典型的バカの理屈。

人は用心できるところを用心したい生き物であり、だからこそレビューというものがあるわけだ。ゼロイチじゃない。イメージ、確率の問題なのだ。
この同町圧力王国であえてタトゥー? 
それだけで、常識外の行動を取りそうな人、というイメージを持たれるのは自明だ。

特に、昔の人にとっては「墨あり=怖い人」でドリフのコントが成立していたくらいのアイコンだ。怖い人に怖がるな!といっても簡単じゃないだろう。

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というわけで、どんな角度で見てもいまいち「偏見に苦しむ」感覚の整合性が見つからない。
温泉の制限は”差別”というより”ドレスコード”みたいなもの。就職の制限は「スーツを着ろ」に近い社会通念。結婚相手の家に反対されるのは、説得の仕方が悪いか親が相当偏屈なだけだ。今時、礼儀をわきまえた好青年がワンポイントのタトゥーを入れているだけで破断なんて、レアケースでは?と勘ぐってしまう

なんか下に見られてるな、くらいのぼんやりしたニュアンスなら別に学歴だって同じことだ。
気にせず熱意をもってアピールすればいい。

 

なんというか、本物のタトゥーを入れているなら強くあってほしいのだ。
覚悟がないならフェイクで十分じゃないか。
日本社会の適応が遅いのが我慢ならないなら、さっさと海外へ出ていくべきだ。出ていけとかじゃなくて、そっちのが確実に早い。

 

なんとなくやっちゃったから、私の行動を全部認めて~、っていうのは世の中の道理にない。イメチェン、セルフブランディングという言葉があるように、髪型や服装を変えるのにも、美容整形するのにも、それなりのリスクがある。
タトゥーはその中でも”アクが強いもの”であり、誰もが抵抗ないものになるにはまだまだ時間がかかるだろう。身体に何か刻むっていうのは、一般的に見てそう軽々しい行動じゃないから。

 

繰り返しになるけど、僕ははじめてタトゥーを見てかっこいいと思った。
龍が如く桐生一馬だって大大大好きだ。
そこには確かな覚悟を感じる。
そうやって認めるからこそ、僕は自分の身体には何も彫らなかった。
かえってディスリスペクトになることはしたくないから。

タトゥーにも歴史がある。魅力もある。
当事者の方には、「偏見」だとか「○○もやってる」なんて弱弱しい言葉で旧来の常識を攻撃するばかりでなく、正々堂々と認めさせる強さを望んでいる。