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スポーツで気になる言い回し3つ(努力の天才/自信が確信に変わる/子供たちのために)

スポーツにももちろん言葉はあります。
堂々たる勝利宣言、敗者の負け惜しみ、ファンへのメッセージ。感覚派のアスリートが放つ言葉の中には、思わず「?」となってしまうものもちらほら。世間で名言扱いされるものも例外ではありません。

今回はそんな中でも僕が昔から気になっているものを3つ挙げていきます。
またこまかーい話になっちゃうんですけど。

 

「努力の天才」

スポーツ界に珠玉の才能が現れると、ファン間でテンプレのように起こるやりとりがあります。
「こいつは天才だ」→「努力してる人に天才っていうのは失礼だよ!」
ってやつです。
僕、この言い返してる人の気持ちがあんまり分かんないんですよね。


だって、同じ素振り100回するにしても、1の効果を出せる人と100の効果が出せる人がいて、後者を天才と呼ぶわけですよね。実際そういう人いますし。

身体面(筋肉の質/神経伝達のパフォーマンス)や非身体面(競技の理解度/練習アプローチの的確さ/メンタル)ひっくるめて、どこかしらの優れた”素養”を、まるで天から授かったような才能だとストレートに褒めてるわけです。

 

…それがなんで努力の話と混ざっちゃうの?


これがもし、
「あなたは天才だから努力しないでいいですねえ(ニチャリ」
って言われたのなら分かりますよ。でも「天才!」って言ってるだけなら、純粋な褒め言葉にしか聞こえないんですよ。
なのに決まって言い返す人が出てきて、自然と会話が進んじゃう不思議。

百歩譲ってそこを許すとしたら、さらなる混乱を呼ぶのが見出しのワード努力の天才です。
上に挙げた理屈でいえば、
「努力できる才能はもとからじゃない。ちゃんと努力して身につけたんだから失礼だよ!」
と言わなきゃいけないはずなのに、そっちはスルーされるからわけがわかりません。

 

…そろそろこれを読んでいる方もわけわからないでしょうから、別のもので置き換えてみましょう。

もし、もしもですよ。
生まれ持ったストロングポイントを努力度外視で褒めるのが失礼だとすると、

広瀬すずちゃん顔小さくてkawaiiー、私もああ生まれたかった」
なんてのは言語同断なわけです。
だって、まるですずが努力してないみたいじゃないですか!

そういう時は横からおせっかい女子が飛び出してきて、
「あの子だって小さいころから努力してきた。ダイエットもした。顔の小ささも美顔ローラーとか小顔メイクの結果だよ。ただかわいいなんて失礼だとおもう」
と評価してあげないといけない世の中になります。

 

音楽界だって「天使の歌声」みたいな子供が出てきたら、あの子だって生まれた時からがんばって泣きわめいて声量を(略


こんな風になるから、素養の質と努力の量を混ぜて評価されるとややこしいんです。

 

 

「自信が確信に変わりました」

これは野球界、それもわが1980年会の松坂大輔限定のセリフですね。スポーツ選手のコメント例としてピックアップしてみました。

プロ入りして間もなくイチローを完全に抑えた日、ヒーローインタビューで答えました。野球ファンの間では”名言”のひとつとして語り継がれています。

 

…でも、冷静に考えるとわけわからなくないですか?

自信と確信ってほとんど意味一緒ですよ?


*自信・・・自分(の行為や考え方)を信じて疑わないこと
*確信・・・信じて疑わないこと

つまり自信=自分の対する確信で、松坂氏のセリフは対象を省略しただけなんです。

僕としては、「近所の三毛猫が猫に変わりました」って言われてるみたいで釈然としません。


もし何かが変わったというのなら、

「これまで自分の能力について半信半疑でしたが、確信に変わりました」
(信じる度合いの変化)
か、
「なぜ周りに評価していただけるのか分かりませんでしたが、自信がつきました」
(評価している対象の変化)

と変化対象の軸をそろえないとおかしい。
近所の三毛猫はアメリカンショートヘアに変わるべきなんです。びっくりするけど。

 

そもそも自信→確信に変わったのが良いことだとすると、まるで自信がふにゃふにゃで頼りないものみたいな言い草じゃないですか。世の中みんなどうにか自信つけたくて生きてる人で溢れてるのに。

これも「努力の天才」と同じく、2つの違う評価軸を混ぜ合わせたゆえの違和感ですね。



「子供たちのために」

言葉の間違いというよりはもったいないと感じるのがこれ。

レポーターもアスリートも、インタビューと言えば何かと
「今日見てくれている子供たちのために」って言うじゃないですか。なんで判で押したように子供なのかなって。

もちろん、未来を支えるのはこれからの子たちですから、俺を見てついてきてくれ!って言いたい気持ちは分かりますよ。でも、スタジアムに連れてきたのは誰か。TVやPCを買ったのは誰か。長年支えてきた”かつて子供だった人たち”は誰なのか。視野を広げたら、もっといろんな言い方があるんじゃないかなと。

 

お母さんお父さんのために。
スタジアム運営を支える裏方さんのために。
長い試合になったら、アナウンサーさんをねぎらってみるのもいい。
たまには別の方向を見てあげてもいいのに思ってしまいます。

ファンのために、は万能だけどテンプレ過ぎるし、応援してくれる人だけに限定しちゃうので刺さりづらい。ファン以外がたまたまそのニュース見ても、興味なければただの空気ですよね。
一方スマホアプリから「今日のゴールを悩める中間管理職のために捧げます!」って流れてきたら。新橋のSL広場がざわつくってもんですよ。

 

あと、子供ってそんなまっすぐに自分ごとにしなくないですか?
少なくとも、僕は小さいころ「〇〇選手に君のために打ったよって言われた!頑張ろう!」って受けとめた記憶がない。だっこされたとかならまだしも、普通はプレー自体の魅力があればに勝手に応援していくんじゃないでしょうか。

そういう意味では、
「TVの前のキッズ!お前らいつも俺のこと呼び捨てにしてんだろ、明日からはちゃんとさん付けしろよ。まあ球場に来てちゃんと大きな声で呼んでくれたら、サインくらい書てやっから!」
とか言われた方が興味湧きそうです。

ぼやーんと「子供たちのため」「ファンのため」とだけ言い続けるのも思考停止じゃない?という思いつきでした。

 

***

いやあ、今日もいちゃもんを飛ばしてしまいました。

もちろん文法を間違える=悪ではありません。気持ちが高ぶったタイミングで発した言葉だからこそ、短くて熱い言葉が生まれる。だからこそ「なんかすげえぞー!」ってファンが盛り上がるわけで、正しくても長ったらしい言葉よりよっぽどいい。
ただ、長年こすられると気になるところはありますね。

あと僕がこういうの気になるのは完全に職業病です。実は間違ってるのに突っ走っちゃって、メディアも野暮だから今さら訂正できない、みたいな言葉たち。熱狂の裏に置き去られた文法の歪みをいとおしく感じてしまうのです。