眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

眠眠カフェイン

NO MUSIC, NO WRITE.


昨日の投稿はとんでもないテーマ、失礼しました。
このブログは投稿毎の人気不人気がそうそう出るものでもなく、はてなスターは±20くらいで推移するのですが……昨日は一気に50ほど減ってて笑ってしまいました。

練習のためにも、たまには振り切ったのをやりたい。
物書きくずれの独善的な趣向でございました。

 

***

気を取り直して、今日は運営さんの信頼回復のためにも「今週のお題」を。
”かける”がテーマのようです。(字はなんでもOKとのこと)

 

僕の場合、この動詞で想起するものごとははっきり決まっています。
それは音楽。

音楽をかける、に適切な漢字をあてられないこと自体が、今回のテーマにバチコリ合っていると思わざるを得ません。

(タイトルの”NO WRITE”は文法的におかしいんでしょうか…。まあ語呂重視というか、ボブ・マーリィの「NO WOMAN NO CRY」的なノリでご容赦ください)

 

きっかけは幼稚園時代。
わざわざ音大の先生を招いて、子どもオーケストラの打楽器担当オーディションを行った時のこと。

僕が見慣れぬ太鼓をポンポコポンとたたくと、
「こ、この子だ!」
と大人たちがえらい騒ぎになり、以降のオーディションを中断して即決になったのを覚えています。

 

ドヤ顔で、人生初の楽器・コンガを暴れ叩く僕。

 

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卒業アルバムには「この幼稚園でリズム感といえばコイツ!」みたいなコメントを書かれ、すっかり調子に乗りました。

 

ミスチルみたいなことを言いますが。
音楽は気がつけばかかっているものではなく、自分でかけることもできる。そう気づいたのは中学に入ってからでした。
厳密にはそれまでも『キン肉マン超人大全集』的なものはかけていましたが……レコードに針を落とすように、なんらかの意図を載せるように「かけた」のは思春期に入ってからです。

以来、イヤホンから流れる魔法とともに、夜を駆ける営みを繰り返してまいりました。
いえ、抽象的な意味でなくマジ駆けのほうです。

 


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モヤモヤの日や辛いとき。
暑さや寒さが厳しければ厳しいほど、イヤホンを耳に深くつっこんで外へ飛び出しました。
僕みたいに行動力のない人間は、音楽の力を借りてやっと、退屈な都会の景色を駆けることができるのです。

 

そんな大いなる力に錯覚して、音楽に賭ける!と誓った日もありました。
仲間と一緒にオリジナルの曲を作ったりして。

だけど無理なキーに喉をつぶし、ギターの音を外すたび、自分に欠けるものを知らされるばかり。楽しさと自信喪失は行って来いで、本当にコレがやりたいのか?と迷い続ける日々でした。
トントン拍子で始まった僕のリズム人生は、いつのまにか狂ってしまったのです。

 

しかし、何かが欠ければ、別のどこかにカケラが落ちるのは自明のこと。
僕はそれを言葉と名づけました。歌詞を書き、詩を書き、人に頼まれた文章を書き。しばらく文字界隈を生業にしていたのは常々申している通りです。

きっと僕は、曲より歌詞カードが好きだったんだよな。
そんな風に自分を納得させながら。

 

あの蛇腹の横書き詩集文化を愛していたのは、たしかな事実ではあったのですが。

 

 


さて、ギター弾きの世界には”妖怪・ピック隠し”なるものが現れると言われています。何度保管場所を決めても、ピックをどこかへやってしまう音楽人の適当さをごまかすため、誰かが捏造した都市伝説です。

いつの間にか失くして、机の下からまた現れて。
僕の音楽への情熱もちょうどそんな感じ。
必要なはずなのにすぐ失くして、そのくせいつまでも無くなってくれません。

 

ギターを始めて、なぜか続いて、確かに分かったことがひとつだけあります。
それは、

「何かを続ける秘訣は、きっかけをいつでも手を掛けられる範囲に置いておくこと」

です。

単純接触は本当に侮れない。

僕の半径1メートル以内にはいつでもギターがあって、一日に一度は太ももにのせて、一生いつものフレーズを弾いています。
けれど、妻が掃除機がけのついでに50センチでも遠ざけようものなら、まるで存在を忘れたように弾かなくなるから不思議。
人は好きなものにすら、それくらい頼りない。
そして、それくらい単純だから、いいのです。

 

すべてを賭けられなくても、一生のあらゆる場面を架けるもの。
僕にとって音楽はそういうものです。

一方で、文章を「かける」なんて言い張るのは、ましてや”書ける”なんて変換するのは、僕にとってけっこうな大言壮語。相当な勇気が要ります。だってそれはひび割れた音楽から飛び出した、ピックのカケラみたいな、ちっぽけな決意から生まれたものなのですから。
せいぜい、足掻けるくらいがいいとこでしょう。

 

それでも。
幼稚園のアルバムのリズム感のクダリの後には、こうも書いてありました。
「文字遊びもだいすきでした」

だったらそっちの人生もいいかなあ!と。
小さなカケラに魂を懸けて、もの書き生きてるところでございます。