リモートワークでコンビニ飯が続くと、たまには手作り感のあるものが食べたくなる。必然的に、最寄り駅の飲食店に目を向けるようになった。夜にはシャッターが下りているだけの建物だったものが、昼には立派に生きているという事実にまだ慣れない。
その大半はただの食べログ2.8で、実際に食べてみると2.5で、そのくせ量が多かったりするのだが、別に期待をしていないから腹も立たない。
僕と町のつながりが強固になった。
これまではスーパー、コンビニ、クリーニング屋などのチェーン店、つまり生きるための”大きな筋肉”しか使っていなかったのが、固有名詞的なお店も経験してみると、なんだか体幹がしっかりしてきたような気がするのである。知らない路地を往くと、まるで血の巡りがよくなったよう。腹圧が高まり、背筋がピンと伸びてくる。
僕はこの街で生きていいのだ、という活力が湧いてくる。
そして昨日、大雨の夜。僕はついにこの町で唯一の銭湯へ行ってのけた。
そこはまさにソウルフルだ。とっつきづらい受付おばあと、シミだらけのおじいちゃん。中年太りと、世間に不慣れなメガネの下宿者。誰もが淡々と作業をこなし、心と身体を整える。そんな空間を、ルーバー窓から吹き込む町の匂いがしっかりと包んでいる。
僕はといえば上も下も寝間着で、それがなによりふさわしいドレスコードと誇りに思った。せっかく風呂に入ったというのに、帰り道にはスウェットパンツの裾が雨でぐしゃぐしゃ。スニーカーは行きの5倍の重さになった、けれど。
町は小さく、どちらかというと大通りのおまけに見える。まるで食べられるのに慣れていない、肉食獣の骨付き肉のようだ。必然的に舗道も狭くできている。
人々は呑気で、注目されるのを嫌っているように見える。
雨の日になるといつも思うのは、この町の傘をさす女の子は、すれ違う時にまったくどかないってこと。前提として傘を伏せてしまっているのだから、どきたくてもどけないのかもしれない。
そんな時、僕はガードレールをまたいで大通りへ出る。避けたことすら察せられないように、大回りに彼女を避けるようにしている。何の理由もないけど、邪魔してはいけないような気がするから。
こんなことを言うと、「女性は道を避けない」って聞こえる人もいるかもしれない。写真を赤い傘にしたことも、紋切り型と怒られてしまうのかも。”どかない”ってことと”塞ぐ”ことは違うし、もっといえばこの”どかない”は肯定的かつ尊重を込めた表現なのだけど、雨降りみたいにノイジーな考えの持ち主には、そんな声すら聞こえないんだろうと諦めている。
chatGPTとか機械の技術がどうとかじゃなくて。
いつの世も、何かに振り回され、カラフルな心をを失った人のなかで文学が消えていく。そして今、この世は多様性という名の雨空。雨粒の一つ一つは違うんだよ。そんな言葉が人の心に染み込むには、まだまだ時間がかかりそうだ。
ともかく。
世の中には、堂々と写真を撮る人、こっそり写真を撮る人、写真に撮られる人がいて、雨の女の子は明確に3番目(願わくば1番目でもあってほしい)。
あれいいなあ、と思っただけなのである。
なんだか難しいことを考えてしまったので、帰り道の後半は、せめて一面のいちご大福を浮かべて帰った。あれは緊張感のある食べ物だ。一度バランスを崩して、それが整ったからこそ生まれるような、ややこしい美味しさがある。身近なところでいうと、「起立→礼→着席」の礼から着席の流れ。いわゆるドミナントモーションというやつである。
いちごだいふく。
「いちごだい」から「ふく」への言葉の流れも絶妙だ。
いちごだいすき。
では意外性がなさすぎてガッカリするし。
いちごだいすけ。
では意外性がありすぎてガッカリする。
いちぼだいすき。
はただの焼肉好きおじさんの叫びであり、
いちごだいぶつ。
はその粒粒感がまりにもグロテスクだ。
いちごだいがく。
いちごダイキリ。
いちごダイエットに、
いちごダイバーシティ。
.
.
.
言葉の粒粒に打たれて、また今日も僕は家路につく。