眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

眠眠カフェイン

もし僕が北川景子だったら

僕は長い髪をなびかせて、表参道をキャットウォークする。
すれ違う人はみんな当然のように振り返る。
「キレイ…」「おい、あの人誰?」「顔ちっちゃーい」
人々は木みたいに棒立ちになって、僕への讃辞に花を咲かせる。

 

もし僕が北川景子だったら、それを喜べるだろうか。
彼女自身は関西人だから、「毎度!」と小気味よく返すかもしれないが、喜んでいるのとはちょっと違うはずだ。
もちろん本人の努力はあるとはいえ、あのレベルの美貌になると小さいころから輝きまくっていたはずだ。通学路の片道でかわいいねが500個くらいもらえただろうし、1個あたりの単価はおそらくたこ焼きより安い。

そんな風に、明らかに”持ってる”環境に生まれたらどうなっていただろう?と考える。
地元を代表する山奥の造り酒屋の後継ぎとして生まれて、一生そこで過ごすとしたら。品質管理に心は休まらず、「名水」なんて謡っちゃってるもんだから移転も出来ない。

進む道に迷いはない。仕事に誇りだってもてる。
でも、自分がつくった訳じゃないんだけど…という一種の迷いは避けられないようにおもう。

先天と後天。
人はどっちを褒められるのが嬉しいのだろう?
僕が北川景子だったら、美しさ自体より、その素材をどう生かしているかを褒められた方がきっと嬉しい。いい指摘をくれたインタビュアーに「せやねん!」とつい関西弁ではしゃいでしまい、また望まぬかわいいねを1個もらってしまう。

 

ただ、それが「偶然」と「必然」に言い換えられたらどうだろう。
乱暴にくくれば、生まれ持った好条件は「偶然」であり、努力して掴んだステータスは「必然」とも呼べる。
こうなると、どっちが尊いかは途端に分からなくなる。

泣ける!と強くそそのかされて見る映画や、お金を払って得た疑似恋愛からは、本質の真芯にある大切な何かが抜け落ちてしまう。人は為したことを評価してほしいと願いながら、こと出会いに関しては、運命的なものを求める生き物だ。

 

じゃあ運命は、偶然 or 必然、どちらで呼ばれるべきなのか。
この問いは本当に難しい。
恋愛結婚だろうとお見合いだろうと、バカでかい宇宙の中でマッチングした時点でそれはそれは天文学的な偶然なのだ。

僕みたいに酒が飲めず、飲み会が近づくと途端に憂鬱になる「典型的行けたら行く大学生」が、妻のいる飲み会に参加したのも奇跡に近い。そして、そんな2人がたまたま暇さえあれば眠る2人だったことも。

「運命は必然じゃなく偶然で出来てる」
理由は全然分からないけど、YUKIが『JOY』でそう歌うから、僕はそう信じている。

 

そして、勝手ながら北川景子&DAIGO夫妻にも運命的なものを感じている。
これほどお似合いで、微笑ましく、男共の嫉妬を生まない結婚はきわめて珍しい。”内閣総理大臣の孫”というすさまじく持ってる環境も、無縁でないのかもしれない。説明しろと言われればMM(マジ無理)なんだけど。


と、今日はこんなナゾ投稿。
なんせ生活調整のため24時間くらい起きているので、スーパー蛇行運転していたら、ごめんなさい。