眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

眠眠カフェイン

ふたしかなれきし

今回はちょっとデリケートな話をします。
もちろん、決めつけや過激な表現はしませんけれど。

 

僕は英語・国語・日本史で大学受験したので歴史にはそれなりに興味を持ってきました。
人間の浅はかさを省みて、偉業に学ぶのは、大事なことだと思ってます。

 

ただ、「正しい歴史」みたいなものはないんじゃないかって。

本格的にそう思い始めたのはニートをしていた2010年前後。暇だからニコニコ動画を見るようになって、おのずと政治コンテンツを見始めるという典型的ニコ厨の道のりを歩んでいたときのことです。当時は民主党への政権交代東日本大震災と分かりやすい流れがあって、特に興味を持ちやすかったですしね。

あとは日韓問題も熱かった。そこで歴史認識だ、真実だと論争する人たちを見ていたら、正しさなんてないんだろうなと痛感してしまいました。お互い感情が入っているから言ってることブレまくるし、ソースは瑕疵だらけだし、当事者でもないのに何を断定できるんだろうって冷めてしまったんです。

 

 

 

歴史ってすごく頼りない。

過去の話はよくて本で残っている程度で、書いた人が適当に嘘をついていたらどうしようもない。ひと昔前には考古学の分野でも捏造がありましたしね。伝承にしても絶対ちょっとずつ話盛られるだろうし、僕の中で、聖徳太子ハリーポッターの実在感はトントンです。

で、未来。鮮明な映像が残るので信ぴょう性が高まるようで、逆にCGや音声編集など改ざん技術も上がるので、余計ややこしくなっていくでしょう。金正恩をディープフェイクで超絶イケメンにされたら、ずっと先の未来での見方も変わるはず。

 

じゃあ現在リアルタイムならすべてが分かるかと言うとそうでもない。重大事件ほど数十年単位で検証や裁判が続きますし、結論が出たころには、もはや当事者ですら事への認識が変わってしまっている。
あとは、純粋にプロパガンダの可能性もありますね。情報の不確かさは著書『ドキュメント 戦争広告代理店』あたりを見るとよく分かります。

これに「正しさ」を持ち込むのはやっぱり無理があるんですよ。

 

 


でも、不確かだからこそ得られるものもある。
たとえばアウシュビッツについて、僕は最低限の知識しか持ち合わせてはいません。正しく理解しているなんて口が裂けても言えない。それでも映画『シンドラーのリスト』を見て感動したり、教訓を得ることができます。

これは別に映画製作者の政治信条をすべて鵜呑みにしてる、ってわけじゃなくて、
「もし本当にこういうことがあったのなら、自分はこうしたいな」
と仮組の中で思惑を抱いているだけです。

今時、映画で正しい歴史を知った!みんなに知らせよう!なんてやってたら、今時痛すぎるじゃないですか。心のどこかでドライに情報が偏向しているリスクを認識しつつ、良いとこどりで勉強材料にする。一般人にとって歴史の向き合い方って、こんなもんでいいような気がします。ましてやSNSで論争なんて。

全部正しく知らなきゃ映画すら見られないなら、ヒトが学ぶ機会は激減してしまうよ。 

 

もちろん歴史を信じることはできます。
むしろ、それしかできないからこそややこしい。

 

従軍慰安婦問題でいえば、うちの祖父に「お前のおじいちゃんはレイプ魔だ!」と言われてるわけですから穏やかじゃありません。売り言葉に買い言葉で「お前のおばあちゃんは嘘つきだ!」と言い返したら向こうも大爆発して当たり前です。

お互いに自分の身内を信じて、正しい仮定から入っているから落としどころなんてあるはずがない。バカアスリートがスポーツの場で無駄に煽り、不確かなソースをもとに軽率に謝罪する第三者がいて…もうぐっちゃぐちゃです。”正しい歴史認識”なんてものをゴールにしていたら、いっこうに解決するわけがない。それぞれの国に教科書があって、完璧な証拠がないんですから。

信じるってとても尊くて、爆発的パワーを生むもの。だからこそ暴発が恐ろしい。

 


僕は、いろんな歴史について「これはあったんじゃないか」「これはさすがに盛りすぎだろう」だとか信ぴょう性をランク付けしながら見ています。さすがに「全部嘘かもしれない…」と疑心暗鬼になるのは疲れるし、テレビを見て全部ヤラセっていう人みたいで無粋なので、そうはなりたくない。

その点でいえば幽霊とか魂も遠からずかな。もはや信じるを超えて、あったらいいな or やだなの次元ですけど。100m5秒で走る忍者なんてぜひいてほしかったと思ってます。

何事も、絶対にない!とは言いません。
逆に絶対に正しい!とも言わない。
もし自分が政治的信条に基づいて行動したとしても、絶対にSNSでアピールしたりしません。
黙って信じて、行動する。静かな中庸であり続けるつもりです。

 

究極、感情で動かなきゃいけない時はありますけれどね。
ロシア―ウクライナの実のところは分からないし、簡単には肩を持てないけど、そこに夫を亡くしたウクライナの女性がいたら寄り添いたい。あなたの味方です、敵ですとか度外視した局面ってありますから。

 

あと全然関係ないけど、歴史ってどれくらい経てばいじっていいとか時効はあるんですかね。お笑いで本能寺の変♪ 本能寺の変♪とかあったけど、あれって暗殺事件じゃないですか。でも、別に不謹慎だとかあんまり聞いたことない。

もうちょっと現代に寄せて、新撰組くらいならパロディにした舞台とかもそこそこある。

特攻隊♪ 特攻隊♪と踊ればさすがに炎上しそうですが…ネタ中、無謀な挑戦を「それは神風すぎない?」と例えて爆笑をかっさらった芸人さんは見たことがあります。文字で書くとアレですが、そこに不謹慎さは微塵も感じなかった。ようはセンス、見せ方ってことなんでしょう。

歴史でもなんでもすべては”見せ方”で決まる。
これだけは、いつの世にも確かな歴史の真実と言えるかもしれません。