眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

眠眠カフェイン

昔はよかったな、と言う時は

 

昨日は100回目の投稿だった。
すっかり忘れてトマトのことなど書いてしまった。

記念は記念だが、100は100であり100以上でも100以下でもない。以下でも以上ではないとすると100でもないということになってしまうが、空き番を作るわけにもいかないので、そこは乱気流の100ということにしておく。エアポケット。

 

そして今回が101回目。
101といえばわんちゃんか武田鉄矢(マルちゃん)が相場だ。
僕はどちらかといえば、鉄矢のほうに思い入れが強い。

今でもたまにあの名作が見たくなる。
といってもトラックの前に飛び出すシーンと、ナットの指輪を贈るシーンだけなんだけど、見るたびに新鮮な感動を得る。

そしてつい思ってしまう。

昔はよかったな、と。

 

こんな懐古が若者から揶揄の対象になることは重々承知している。
だがこちらとて、今が嫌だから過去に戻りたい!という意味で言っているわけではないのだ。記憶を捨ててもう一度見たい映画があるように、無知、無知である自分は取り戻せない。できるとすれば一瞬だけ思い出せるだけであり、それが昔の感動ポイントに触れた時なのだ。

 

 

 

それは黄みがかったレトロフィルムを、今の澄んだレンズで見ることではない。黄みがかったレンズを通して、レトロフィルムを「澄んでいたいま」として復元させる作業だ。
願わくばノイズの入ったVHSを引っ張り出してみるのが望ましい。

鉄矢と温子●●年ぶり再会!でもダメだし、古賀シュウミラクルひかるも笑えるけどダメなのだ。

 

ただし昔のものを「昔の時代性ありき」と理解せず、今の作品は澄んでいるからダメだ!と言い出すのはホンモノの懐古厨だ。

その時代時代にしか得られない感動の尊さを知ること。
だからこそ、今の自分が今を感動できているか見つめなおすこと。
過去を振り返るのは、今へ強く向き直るためであるべきなのだ。

 

ガチで思春期をやり直せと言われたら気が遠くなる。
宿題なんて、今さらとてもつき合ってられない。
たぐった自分史のフィルムはNGシーンの連続だろう。
むしろ、あれくらいの被害で済ませてくれた今の自分に感謝をしたいくらいだ。

 

僕は死にません。あなたが好きだから。

理屈はいまだによく分からないし、武田鉄矢の蘊蓄臭さを礼賛するでもないけれど、そのセリフの輝きは時代を超えて胸に残っている。

僕も理由を探しながら生きていきたい。