眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

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ダサい論

ダサい。僕は末期とはいえ、昭和世代の人間はとにかくこの言葉に縛られてきた。
HP、つよさ、たいりょくを重んじるオラオラ鈍器系男子の天敵が”なめられる”であるとするなら、われわれ繊細ナイフ系男子が忌み嫌ってきたものはまさにこの”ダサい”である。

だぶん、いまはもう死語になってるんだろうけど。

 

元々は「時代遅れ」のニュアンスが強かった

1970年代に生まれたとされるこの言葉、もともとはヤンキー(ツッパリ)が優等生に、あるいは都会人が地方出身者に、最新のカッコよさが分かってない!といった侮蔑の意で使われていたようだ。
類語は「もさい」「へぼい」「イモくさい」など。イモくさいは「ポテトチック」とも言われていたらしく、あえて今言うのも悪くない軽妙な響きがある。

かくいう僕も、最初はこんな意味で使っていたように思う。中学時代にはじめて高円寺に行ったはいいが銀色の宇宙服みたいなブルゾンを買って帰ってきたとき、鏡の前で試着した自分に「だ、だせえ…」とつぶやいた記憶がある。

 

一億総センス時代到来

言葉の意味は時代とともに変容する。1990年代後半に古着ブームが起こり、ダウンタウンのシュールな笑いが世間に浸透すると、「最新のもの」「みんなやってること(ベタ)」が必ずしもイケてるとは限らなくなってきた。
(イケてる、なんて言葉も最新だった)

さらにネットがどんどん普及すると、いよいよセンスの時代が幕を開ける。ミリオンヒットを繰り返す小室サウンドに耳をふさいで、ニルヴァーナにいったり、ハイスタに行ったり、ゆらゆら帝国に行ったり。”本当に自分の好きなもの”を見つけるのが是とされ始めたのだった。ただ時代のメインストリームについていくだけなんてダサい、という、少し前とは真逆とも聞こえる価値観。

僕でいえば、ちょうど高2~高3くらいでこんな感じだった。

 

復讐のとき

本当に好きなものを追いかける。それはとても尊いことだ。問題なのは、集団の中でもそれを保てるのか?ということ。

大学では僕にも数々の修羅場が訪れた。好きなバンドTシャツを軽くいじられたり、ダウンタウン信者には考えられない雑な笑いにまきこまれたり。おっいいですねと思った女の子が、自分の価値観ではクソダサno.1のバンドを「大好きなの!」といってくることすらあった。
いわば、ダサいとされてきたモノたちの復讐である。

自分はそれを受け入れるのか。流されるのか。ためらえば、どうやら他人にはとっつきづらい印象を与えてしまうようだ。

 

葛藤から生まれるもの

言葉が変われば人間も変わるもの。クールさだけではモテないと気づいた僕は、どんどんオープンな人間になっていった。本当は適当に相手を褒めるなんてダサいんだけど、好きな子のためなら花束くらい集めて、あげちゃう。
つまり「自分を曲げてでもやりきるってカッコいい」精神だ。
こうなってくると、もう何が良くて悪いのかが分からなくなってくる。

とはいえ、時代もちょうどそんな感じだったのだ。
ダサかわいい。ダサかっこいい。逆にいい。2000年代には”良い”のカタチもどんどん多様化して、日本人の気質も若干アメリカナイズされていった。

途中はどうあれ、結果良ければそれでいいんじゃね?
大きな器や強靭なメンタルを片手に、そう言えることこそがクールというか。その流れは今の時代にも受け継がれているように思う。
つまりイケてるダサいを論じること自体がダサい、ということか。

 

最新の個人的ダサい事情

「プライド高そう」
僕が若いころによく言われていたこの言葉は、決して”ゆるぎなき自信”なんかではなく、この”ダサさとの葛藤”だった。理解できない人には一生理解できないだろうけど、そのつまらないこだわりこそが自分の魂であり、失くしたら終わりだと信じていたのだ。

最近人が何かをしているのを見てダサいと思うことはめっきり少なくなったし、目的のためなら多少は自分を曲げられる。ただ頻度を減らし、”ダサいからやだ”はとっておきにしようと決めただけだ。

その魂は、もっぱら自分を律するという意味でのみ燃え続けている。嘘をつかないとか。ちゃんとお礼を言って、謝るとか。大人になったというより、ダサいの使いどころは最低限にしとかないと面倒くさいことを学んだのだろう。

 

ダサいとかいうヤツって確かに面倒くさい。
でも僕にとっては、面倒くさがって「結果よければよくね?」までいくほうがもっとダサい。
オープンを気取って許せないもののひとつもなくなったら、生きてる意味あるの?って思ってしまう。

あっ、いまハイロウズの『即死』が頭に流れた。
そういえばあれの歌詞の中にも「ダセー」って出てくるんだった。かっこいいけど。