眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

眠眠カフェイン

自分のブログに点数をつけるなら?

ブックオフで400円の本を買う。
不思議なもので、良い出会いは一直線に足がそちらに向かう気がする。

その本はとある広告系ライターが文章術についてまとめたもので、予想通りだいぶタメになった。

 

特に心に残ったのは、

・文章の影響力は「何を書いたか<誰が書いたか」で決まる
・面白味は”事実”にあり、”自分の内面を語る”だけはつまらない
・書く上で必要な作業の95%以上は”調査”

あたり。
うーん、確かにそうだ。好き勝手にブログをやっている立場からすれば身につまされることも多かった。

調査っていうのは、「他の人が書いていないか調べる」「それに対する世間の評判を知る」「あらためて一時文献にあたる」とかそういうことね。

 

さて、上の本で学んだことをもとにひとつ検証をしてみたい。
仮に文章というものが誰が書いたか(1~10点)×何を書いたか(1~10点)の100点満点で決まるとする。

たとえば僕のブログなら、まず「誰が書いたか」部門は匿名なので1点だ。さらに「何を書いたか」部門も、文章を作る上で95%を占めるプロセス”調査”をまるまるすっとばしているのだから1点で確定。
結果、1点×1点=1点のブログ、ということになる。

そんなに低かったのか…と正直ショックを受けてしまった。しかしよく考えてみれば全然バズってもいないし、反論する材料もない。いったんは甘んじて受け入れることにする。



とはいえ、やっぱ腑に落ちない。
日々ネットで調べものをしていると、名も知らないブログから超有益な情報を傍受するケースがかなりあるではないか。レシピとか、ビジネスマナーとか、ゲーム攻略wikiとか。誰が書いてるか知らない時点で最大10点が確定してしまうわけだが、あれはどういうことなのか。

…まあ、これは”文章”というより”情報”だからちょっと違うのかもしれない。情報の場合は0~100点の間というより、必要なものがあれば100点、なければ0点という感じなのでちょっと毛色が違う。

この辺でだんだんわからなくなってきた。文章の価値には拡散性、情報の希少さ、表現力などいろんな基準があり、なにをもって100点とすべきかが分からなくなってきたのだ。”読みたくなる度”の尺度でくくるとしても、「大事件を起こしたけど文章なんて初めて書きました」みたいな獄中手記もエントリーされてしまう。それを名文!と崇め立てて良いかは倫理の問題になる。

 

もちろん、先に挙げた本の中に文章を点数化する記述があったわけではない。人を食ったような独特の文体で、文章のあらゆる側面をありありと書いているだけ。もしかしたら無益な本なのかもしれないまである。

「文章には価値がある」「別に点数をつけてもいいけど、うまく測れるものは限られている」「ある意味点数が低くてもいい」

ひとつひとつの項目はまるで正論のように断言してくるのに、結局何が言いたいかは分かりづらい。書くっていろんな魅力があるよね、というのがドーンと伝わってくるだけだ。こうして僕が新しい文章を生んでいる時点で、うまく煙に巻かれたということだろう。

 

著者はこうも言う。

書いて自己顕示、なんてまったく割に合わないこと。
愛の持てないものを書くって辛いよね。
何か書いている間って孤独でしょ。

その言葉はプロらしくなめらかで、時にドライだ。

 

でも、こうも書いている。

もともと孤独なのが人生。でも、誰かとつながるって奇跡じゃない?

 

確かに、文章って「誰が言うか」だ。
フレーズはありふれていても、餅屋にこんな夢みたいなことを言われたら響きが違う。

実際の市場価値は分からないけど…半端に30点くらいで価値をつけられるくらいなら、僕は1点もののブログを目指そうと思った。

そんな読書感想文、でした。