眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

眠眠カフェイン

SWEET TOKYO COMPLEX


豚肉を柔らかくしたいという些細な願いから、スーパーで砂糖のみを買い、わしづかみにて信号を待つ。
イタリアン料理のYoutuberに触発されたのである。

背後は交番。
いつも通り、2人の警官が常駐している。

ふと、
「月曜の昼から髪ぼさぼさの中年が白い粉をもって立ってます」
と騒ぎにならないか心配になった。

一番安い160円のものを買ったとはいえ500gあるし、それがもしブツだったらどこのメキシコカルテルだって話なんだけれども、お上への妙な警戒心がそうさせた。

 

結婚して5年以上が経つ。
妻が一粒の砂糖も使わずに料理していたと考えると、なんだか感慨深い。
そういえば煮物もつくらないし、”甘辛い”みたいな味つけもなかった。もちろんオムレツも作らない。酢はあるけどほとんど減っていないから、我が家では料理の「さしすせそ」が「しせそ」どまりということになるんだなあ。

そんなことを考えていたら冬の風がぴゅーっと懐に入ってきた。

 

東京は意外に寒い。
いや僕にとっては深刻に寒いのだけれど、北国の人が聞いたら怒るかもしれないから、あくまで”意外に”とつけている。

僕にとって、東京はこんなことの連続である。

 


”こんなこと”の指し示す範囲を言語化するのは難しい。
僕は大学の頃、あるデザイナーと東京の本をつくろうと画策していたわけだが、その頃はこれっぽちも表現できなかった。

 

近いところでいうと「逆コンプレックス」になるんだろうか。

上京して訛りをバカにされた、という人の話を聞くと、東京生まれの僕は標準語以外にふるさと言葉があるのを素直にうらやましいと思う。けれど、バカ正直に「なんで方言可愛いじゃん!」なんて言ったら、見下してる認定されるかもしれないから無難に答えてしまう。
みたいなやつ。

なんというか、本来伝えたい気持ちにブレーキがかかるのだ。

 

前に勤めた会社は4社中3社が関西本社だったから、よくそういう瞬間があった。

「昨日、有楽町の無印良品歩いてたら井浦新さんが取材受けてて」
なんて話をしようとしたら、
「出た、ユ・ウ・ラ・ク・チョウやて」「普通に街歩いただけでそうなるんや。東京は凄いなあ」
と出鼻をくじかれてしまう。

僕だって「凄い偶然がありました話」としてそれを言おうとしているのだけれど、西のスピード感で「東京はすごい話」に塗り替えられると調子が狂う。以降、くれぐれも調子に乗ってる風に聞こえないようにしようとするので、余計むずかしくなってしまう。

 

いっそ僕が東京を鼻にかけるくらいのほうが良かったんだろうけど、なんといっても八王子だから、とても代表を演じきれない。

生まれてずっと過ごしている東京の街はもちろん好きだ。
でも、誇り方がとても難しい。



 

僕も、関西のメンバーにも悪意はない。
素直な驚きであったり、昔からある「東京と関西の違い話」の延長だったり、感覚的な部分でちょっとズレが生じただけだ。

 

でも、これって世界の抱える閉塞感に近いかもしれない。

 

たとえば子育て中の人と話すと

向こうからは
・ごめん子供の話は楽しくないよね
ネムヒコ君の所は子供いないのを気にしてないかな
を多少なりとも察知してしまうし

僕は僕で
・子育ての大変さをかんたんに同意したらダメだよな
・うちが子供いないのを気にしてると思ってないかな
みたいなことを勝手に考えてしまう。

そういうことが続くと、自分に近いコミュニティの人と話していた方が楽、という気持ちが一人でに出てくる。多様性の尊重に疲れた結果、近い属性の親和性を痛感するのだ。もちろん、属性違いでもバカみたいに笑い合えるのが理想形だけど、そんなの無二の親友じゃなきゃ難しいから。

 

男と女。
黒人と白人。
宗教と宗教。

分かった気になった今だからこそ疲れるというのがあるんだろうな。それが差別用語と広く認知されていても、黒人が黒人に言う「ヘイ、ニガー!」はある種親愛の情で、外で敬語使いまくった後のタメ語はたまらなく気持ちよかったりする。

それもヒト。
皆がちゃんと成長するからこそ、余計複雑になるものもある。

 

…なんてことを考えた交差点の1分弱。
砂糖をぶらさげた甘ちゃんがラブ&ピースだなんてきっと世界から怒られてしまうから、せめてみなさまのラブ&ジョイを祈ろうと思う。

今年は雪が、降るのかなあ。