眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

眠眠カフェイン

20代の頃ひとまわり年上の女性に萎えた事件

大学生のころ働いていたカフェでとある常連客がいた。
アスカさんという女性で、年は30代半ば。いつも閉店30分前くらいにやって来て、3時間居座るみたいな落ち着きでコーヒーを飲んでいた。

 

カフェは個人経営のオシャレな感じではなくて、有名チェーン店の基幹店。池袋のど真ん中にあり、ランチタイムになると老若男女が戦場のように押し寄せた。

想像すると分かると思うけれど、店員と客が話すことはほとんどない。せいぜい空席確認とトイレの場所について、あとは図々しい注文とクレームくらいのものだ。

 

その点、アスカさんの来店する時間帯は1日でもっとも隙が多いタイミングではあった。僕が気だるそうに掃除を始めると「もうちょっとだけ居ていいですか?」と聞いてきたり。次第に向こうの敬語が外れて、「レジ打ちが”できる人”って感じになってきたね」と言われたりした。

 

20代前半でそういうのって,、ワクワクする。特に僕は悪女にふられて虚無に沈んでいたころだったので、多少の災難が自分の身に降りかかってもやけくそになれるタイミングではあった。バーで働いてる時に変な人は腐るほど見てきたし、ちょっとやそっとじゃ怖さもない。

 

そして、ある週末の夜にアスカさんがこう言った。
「今日、車で来たんだけど乗っていかない?」



 

池袋から八王子まで。プライベートで話すのははじめてなのに、けっこうな長い時間を一緒に過ごすことになった。

聞けば、その日は仕事終わりに知り合いに会うため車で来たが、急に予定がキャンセルになったとのこと。僕は彼女が相模原に住んでいるのを知っていて、「近いですねー」くらいは話したことがあった。だから急な思い付きで誘ってくれたのだろう。

もちろん結婚していることも知っていた。

 

ふと運転席の横顔を見てみる。

シチュエーション自体にはワクワクしているとはいえ、正直なところアスカさんのルックスはそこまで好みではなかった。顔は比較的整っている。スタイルもキープしている。しかしどこか世間を知りすぎているというか、悪く言えば疲れて見えた。

彼女は少しでも我慢ならないと会社を辞める癖があって、これまで10社以上を転々としてきたらしい。その強さみたいなものが顔にありありと出ているのだ。竹内結子さんをアヤシイ薬品で煮込んで強火でさっとあぶったような。たぶん、強豪女子バレー部の顧問なんかをやらせたら抜群に似合うと思う。

一方で、子供がいないこともあってか、既婚者にしては自分をかなり女子扱いしてほしい人という印象を受けた。

 

「私たちってどういう関係に見えるんだろうね?」
高速道路を降りてすぐのファミレスで彼女が言う。

僕がいたずら心で「んー、親子じゃないですか?」というと、
わざわざ向かいの席まで歩いてきて肩パンチを浴びせてきた。

…ここで特に萎えるようなことはない。むしろ好きな人にはご褒美なはずだ。

 

 

ところが、夜が更けると風向きが大きく変わり始める。
アスカさんの衝撃の告白をマイルドに要約するとこうだ。

「好きでもない旦那と一緒になった。勉強と仕事の成功がすべてで、愛は必要ないと思っていたからだ。ところが、つい最近になって自分でも信じられないくらい好きな男性に出会ってしまった。生まれて初めての幸せな時間だったが、旦那にバレてしまい、もう彼とは一緒にいられなくなった。好きになった彼は20代、そうあなたと同世代」

返す言葉がないというのはこういうことをいうのだろう。苦い顔をする僕に、アスカさんは「あの眼鏡の人、興信所かも」とブラックジョークを飛ばした。

 

…いや、大丈夫。まだ舞える。
もともと僕はアスカさんと何かをしたいがためについてきたわけではないのだ。たぶん、その時攻勢に出たらびっくりするくらい簡単に攻略できそうな雰囲気はあったけれど、僕はもはやそんなことより、物語自体に興味がわいてしまった。

すごく強かった人が、すごく弱いその瞬間が。


「私ってもう、彼以上の人に出会えないのかな?」
彼女はか細くつぶやく。

(知るかい!)
僕はそんな言葉を飲み込んで、無責任なことを言う。
「人の出会いはどうなるか分かりませんよ。何事も100%はないし、それこそ僕とアスカさんだってどうなるかわからない」

彼女はえっと小さく声をあげて、希望と絶望が混ざったような顔をした。

 


この日、僕には何度も萎えそうな瞬間はあった。
オトナの世界を知りたい、女性に自信を取り戻させてあげたい、物語の続きが知りたい。いろんな角度から自分の気持ちを奮い立たせ、一人の男として彼女の前にいようとした。

だって、僕が何の色気もない存在になってしまったら、どんな言葉をかけてもアスカさんには響かないだろう。

そのためには、僕が彼女を一人の女性として見なければいけないのだ。

 

でも、ダメだった。
萎える瞬間はとんでもなくトリッキーな形でやってきた。
いわゆる、ジェネレーションギャップというやつだ。過去にプラスマイナス3歳以内の女性としかつきあったことのなかった僕は、突然投下された爆弾に打ちのめされることになる。

 

それは、「今日はすべてを忘れよう」と言いあって行ったカラオケの最中に起きた。

アスカさんの選曲は問題ない。
若干連発し過ぎの感はあったものの、僕の世代にもおなじみのaikoをメインに歌っていた。それなら初期の曲を歌おうが古いという印象にはならない。まあ、たぶん聖子や明菜を歌われたところで萎えたりはしないんだけど。

 

問題は僕が歌う番になった時だ。
あまりの衝撃に何を歌ったかすら忘れたのだけれど、曲が一番盛り上がるサビに入るタイミングで、

アスカさんが少し半身にのけぞりながら、「イエイイエーイ」と拳をぐるぐる回したのだしたのだ。

刹那、彼女が和田アキ子に見えた。バックには夜もヒッパレのスタジオが浮かんだ。ついさっき言った自分のコメントを撤回して、この人と恋愛関係は100パーセントないなとまで思った。一人の女性をまとう神秘性のヴェールは、キツネにつままれたように一瞬で消え果てしまった。

 

えっそんなことで!?という人もいるかもしれないが、僕だってビックリした。人の気持ちというのはそんなに簡単に離れてしまうんだと。死語を連発されたなんて非にならない。ノンバーバルだからこそ恐ろしい出来事だった。

そんな何気ないことを許せないのは、言ってしまえば僕のわがままだ。でも、恋愛に限らずこういうのって世の中で無数に起きている。お義母さんになんか嫌われるんだよねとか、あの経理が急に口をきいてくれなくてとか。世の中はどちらのせいとも言えないすれ違いの連続なのだ。

 

誰をどう萎えさせてしまうか、なんてのは交通事故みたいに理不尽でとても用心しきれない。だからこそ僕らは、「よく分からないけど好き」というものを大事につかまえていくべきだ。

今や僕もアスカさんの年齢を超えた。難しい時代だ。気を遣いつつも、若手の心変わりに凹みすぎることなくたくましく生きていこうと思う。