出版社で働いていたころは、かなり年配の作家さんとやり取りをすることが多々ありました。僕は特に、男性と相性が良かったように思います。おじいちゃん子なのに祖父を早くに亡くしているから、なんか愛着が湧きやすくて。多少の頑固さは容易に許してしまうのです。
その中でも、ひときわファンキーな方がいました。
物腰はすごく柔らかくて、「先生」なんて堅苦しく呼ぶのが逆にはばかられるような、自由人。うちの会社に来るときは、いつも英国紳士風の装いに、ハットをかぶっていました。(ジジイ×ハットの信頼感は異常)
御年実に90歳。
その割には元気ですが、もちろん完璧な状態ではありません。
・耳がスーパー遠い
・PCに弱い(ジジイにしては強い)
この2点が大きなネックで、コミュニケーションは大変です。
向こうから電話がかかってくると、僕は仕事場全体に響き渡るような大声で会話をしなければならず、最初のうちはとても恥ずかしかったのを覚えています。
「元気ですか!!!」
まさかものまね以外で、この挨拶をシャウトすることになろうとは。人生で一度は発してみるべき大声としては3本の指に入るセリフでしょう。
そんなこんなで仲良くはやっていたんですが、一応は仕事。時には悠長にしていられないときもありまして。ある日、原稿締切が差し迫ったタイミングで、僕がおじいちゃんの家に初めて訪問することになりました。
「原稿をパソコンで打ったんだけど、出し方が分からないんだ」
普段なら同居人の方がやってくれるみたいなんですが、その日はたまたまいなかったみたいなのです。
もちろん住所は知っていたのですが、おじいちゃんは
「ぼくの家は分かりづらいところにあるからね。案内してあげるよ」
といって聞きません。
さすがにGoogleマップの概念は教えても分からないだろうし、なによりせっかくの誘いに対して野暮ってものです。僕はせっかくだからとご厚意に甘えることにしました。
ところが、次のおじいちゃんがセリフが波紋を呼びます。
「網戸の近くに来てもらえればいいから」
???
裏口にってこと?
それ迎えに来てくれてないじゃん
もしかして雨戸ってことか?
‥‥いや、それも意味変わらないか
僕は真っ白になりそうな脳内でロートーンな自問自答を繰り広げながら、キーボードを片手ではじき、おじいちゃん家の最寄り駅前にそれっぽい地名がないかを探します。が、全然ない。一番近いところで「アイン薬局」というのは見つけたんですが、強引すぎるし、待ち合わせ場所としてはトリッキーすぎる。
その後、失礼ながら何回か聞き返したものの、おじいちゃんの声がハスキーすぎることもあり正解は分かりませんでした。アマゴ。アミノ。アリド。どうしても適切な日本語に変換されないんです。
最初のうちは小声だった向こうの声も、あまりにも伝わらないので焦りの色がにじみ始め、ついに信じられないことが起こります。
まさかあんな物静かな男性が大声で叫ぶとは。
僕の人生において、日本のお年寄りにあんなことを言われたのは最初で最後。
あ、
ア、
「アミーゴ!!!」
答えはコレでした。
いや、なんか良さそうな場所だけど。
知ってて当然みたいに言われてもわかんないよ!
迎えに来てくれるっていうから、つい駅前ばかり探してしまったんですが…駅から350メートルほど歩いたところに当該の施設があったみたいです。
これか!
すれ違いを重ねてやっと正解を見つけたカタルシスで、僕も嬉々として返します。
「ああ、アミーゴ!」
編集部が変な笑いに包まれました。
でも、なんか気持ちいい。
人生で一度は発してみるべき大声第一位はこれかもしれません。
「そうそう、アミーゴアミーゴ」
電話先で、やっとわかってもらえたと安心するおじいちゃんの声。
こうして僕とおじいちゃんはおともだちになったのです。
その後、無事お宅を訪問。
おじいちゃんは貫禄のアロハシャツで迎え入れてくれました。さすがにいい家で、天井も高く開放感のあるつくりです。
「お邪魔します!いやー、広いお宅ですね!うちなんてこの何分の1もありませんよ!」
僕の大声がリビングに響き渡ります。
それでも、8割くらい聞き返されるんですけど。
でなんとなく雑談をしているうちに、驚愕の事実が浮かび上がります。なんと同居人の方は2人いるらしく、いずれも若い女性。しかも片方は外国人。お手伝いさんでも、親戚でも、結婚しているわけでもないというのです。
じゃあ何、という言葉を飲み込んでふと壁を見ると、コルクボードに写真が張りつけられていました。そこには両肩に女性を抱いたおじいちゃんの姿が。なんだかすごすぎてそれ以上質問できませんでしたが、世の中にはやっぱり知らない世界がたくさんあるんだと痛感させられることになりました。
ただ、経歴を考えるとあながち変な話でもないのかもしれません。おじいちゃんはものすごいインテリで、戦中~戦後まもない時期に貿易英語をマスターし、船で世界中を転々した方でした。それこそ行く先々の港に何らかの女性がいたそうです。キティだかアモーレだかセニョリータだか知りませんが、いやあ、海を駆ける男はスケールが違いますね。たぶん僕の知らない年金をたくさんもらっているのでしょう。
そんな方が「一太郎」で原稿を書いていたというのがまた味があってよし。そこはwordじゃないんかーいっていうね。(年配の方って異常に一太郎好きですよね)
やっぱりおじいちゃんって最高だな。
尊敬とほっこりを存分にいただいた一日となりました。