眠眠カフェイン

横になって読みたい寝言

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無為の目、いじめ、変であること

母の車椅子を押すようになってから、他人の目が気になるようになった。
いや、正しくは見分けられるようになった。

何かあれば気を遣おうとして意識的にこちらを見る人と、
単に変わったモノが動いているから無意識に目を留める人。

違いは歴然としている。
そして、僕は後者の視線を「無為の目」と呼んで嫌っている。

 

飲食店で順番待ちをしているときなど、いきなりジーッと長時間見てくる人がいる。理由は分からないけど、割合は<10%が子供><10%が年配女性><80%が年配男性>という感じ。好奇心でキラキラした子供の目はまだしも、大人の無為の目はとにかく心地が悪い。
本当に何も見ていないみたいに見てくるのだ。

特にうちの母はそうした周囲の反応を敏感に察知するから、妙な視線を向けられると僕までピリピリしてしまう。

こっち見んなよ、と言いたくなる。

 

最初にそれを感じた時、ハッとした。これがヤンキーの心境だったんだなと。まるで頭にリーゼントが降臨したような閃きがあった。

あの子たちは人一倍メンツを気にしているから、(自分から変な格好をしておきながら)自分の望まない形で見られるのを嫌っているのだ。趣味を理解してくれそうなダチやマブい女はYESでも、パンピーはNOってこと。

僕もそれと似たようなものだ。一人で歩いているときに比べて気遣いを求め、無礼者をより強く排除しようとしている。今どき車いすなんて珍しくはないが、だからこそ道行く人の理解度が浮き彫りになって見えた。

こういう話になると、
「向こうが見てるなら、お前だって見てるんじゃん」
という反論が常套句になる。まあある意味そうなんだけど、アプローチが全然違う。

たとえば1台の監視カメラがぐるっと周囲を見渡す。すると、こちらに向けられたレンズを見つけた。赤い録画ランプもついてないし、照準を逸らしもしないので気味が悪く、なにか意図でもあるのかな?と訝しがる。なんだテメー、となる。

そんなニュアンスを理解してほしい。
目的がある視点と、なんでもない視点は全く別物だということ。

 

さて、最初にぼーっとした視線を「無為の目」と呼んでみたが、いわゆる”いじめられやすい子”には、目に限らずこうした無為の要素が多いんじゃないかと思う。他人、異性、身だしなみ、流行。多数派が注ぐ興味に関心のない人間は群れの特異点になり、やがて”変”と認定される。もちろんそんなこといじめられる「原因」や「理由」になるわけはないが、残念ながら「誘発」しやすい部分はあるだろう。

乱暴にいうと、ヤンキーと童貞ではアンテナの感度に差がありすぎるってこと。怒ったり笑ったりふられたり活発な子は、良くも悪くもバッチバチに電波が立つ。彼彼女らはそんなに電波を飛ばしてるのに満足に受け取えないとき、消化不良ですねるのだ。電波のない人間は変に見えるだろうし、殴りたくなるかもしれない。

 

別に変でもいい。人は変でも生きる権利をもっている。だからこそ、変には隙が伴うことは自覚しておいた方がいいと思う。人の目を完全に無視するんじゃなく、「それ変だよ」の指摘を一度キャッチした上でなお変でいると決めたら、その生き方は抜群に強靭だ。

 

ネットではよく、
「いじめるほうが100%悪い!はい正論!話は終わり!もう聞きませぬ!」
と耳をふさぐような意見を見かける。僕は、そこに思考停止の怖さを感じてしまう。

別の犯罪に置き換えてみると、
「短いスカートは法に触れないからどこで履いてもOK!人気のない夜道を歩いても、襲うほうが100%悪い!」となる。これではいっこうに問題は解決しないし、いわゆる”Tlue but useless”な議論になるだけだ。

いつ履くか、どこを歩くかという防衛論はある程度しておくべきなのだ。

 

ただ、そうはいっても成長で解決できないのが発達障害の人たちである。
彼彼女らはたとえ無為の状態は脱しても、「分かっていても興味ゲージを伸ばせない領域」を抱える。事務なら、誰でもできるとされる電話業務とか。それができなかったとき、むしろ自我が確立されている大人のほうがショックは大きいかもしれない。

日本一周できるレベルのバイタリティと発信力をもっている方ですら、そうした世間とのギャップに耐えきれず自死を選んでしまった。当時者の伸ばせないゲージ問題をどう解決するのかは、周りの理解に大きくかかっている。

…と、この辺の話はまた日を改めて。
専門家じゃないし込み入った話は難しいけど、ちょっとだけ体験したことがあり申す。